多くの場合、何かが目の前や自分の世界の中で起きたときに、感覚・感情が自分の中に生まれます。
その感覚・感情が悲しみだったり、怒りだったり、焦りだったり、嫉妬だったり、何に対して自分がどう反応しているのかが明確な場合はいいですが、実際に身体に起こっているのに、なぜそうなっているのかうまく言葉に表現できない、その感覚を説明できないときがあります。
「苛立ち」や「モヤモヤ」のように小さい感覚もあれば、あまりに大きくて認識できない「衝撃」のような感覚もあります。
言葉に表現できないうち、認識できないうちは、ただそのモヤモヤ、苛立ち、衝撃を感じていればOK。
そこにその感覚があるっていうことだけを、ただ感じるだけ。
そうすると徐々に落ち着いてくる。
私は、自分自身が落ち着いてきたなと思ったら、その感覚を言葉で表現しに行きます。認識しに行きます。
その目の前のこと、自分の世界で起こったことの、何をどう感じたから、私はこの感覚・感情を味わったのか?例えば私は今回衝撃的な【悔しい】気持ちを感じました。
ですがあまりに衝撃が強過ぎて、初めは何が悔しいのか自分で認識できていませんでした。
・嫉妬しているからか?
・うらやましいからか?
このようにざっくりとしたままでは、自分の感覚の正体には辿り着けない。
目の前の世界の、誰に対して、何をどう感じているのか。
この人に対してはどうなのか?
この物に対してはどうなのか?
この状況に対してはどうなのか?
大事なのは、正直であること、素直であること。自分に嘘をつかないこと。
なぜかというと、自分の感覚の正体を認識しに行くことというのは実際、見たくない自分の一部を見にいくことでもあるからです。
劣等感、挫折感、無価値感、罪悪感、敗北感、絶望、恥、無力感
こうしたありのままの自分の一部を素直に認める、受け入れる。
そうやって嫌なものに対面していくと必ずその先に愛があることがわかる。
この目の前のことを通して自分が何に気づきたかったのか、反対に言うと、目の前のことは何に気づくために自分が起こしたことなのか。
それを自分で紐解けるようになると、すべてが愛を知るため、愛を学ぶために起こっていると体感できるようになります。
私は今回【悔しい】を通して、自分の無力感を見つめてその先に、自分の望みを見出しました。
キーワードは「憧れ」
私が苦しかったのは、本当の望みではないことを望んでいたから。
「憧れであるその人のエネルギーに触れたい」これが望みだと思っていたから苦しかった。
実際に触れている人たちに対する嫉妬や羨望や執着が生まれた。「私には不可能」の無力感が大きかった。
でも
本当にそうか?
触れることが幸せなのか?
周りにいることが幸せなのか?
違う。
本当の望みは
「私自身がその人のようなエネルギーを放つ人になりたい」
そこにあるのは純粋な憧れ。生き方への憧れ。
世間にどう思われるか一切関係なく自分の生き方をまっすぐ貫き、誰にも迎合せず世界の中心に立ちパワーを発揮し、思いを発信するその生き方。
私もそう生きたい。
これが分かったら、次の理解が待っていました。
それがまだできない、影響力の小さい、エネルギーの届く範囲に伸び代がある今の私の代わりに、私の前に現れた世界の中で今その人が活動してくれているんだ。
憧れのその人は、未来の私の姿だから。
「今それができない私」という視点に立つと【悔しい】になる。
でも「今それができない私の代わりにやってくれている」という視点に立てたら【ありがとう】になるし、純粋に憧れの存在になる。少し先の私だと思える。私がそうなっている日がすでに、見えない次元で叶っていると思える。
見たくない私の先には「必ず」愛があるんだ。
まずは見たくない私を素直に認めて受け入れるところから。子宮がその役割を持っていて、どんな自分をも受容する器になってくれます。
すべての女性にオーガズムの体感と愛の日常を