自分を生きるとか、スピリチュアルに生きるとか、そういうものに憧れを感じ始めたのは今から7年前でした。
7年前、パートナーシップに一区切りついて日常が幸せで豊かになったことがきっかけでした。家族でいて十分幸せだけど、同時に「退屈」という感覚が私の中に芽生えてきました。そのときに目に飛び込んできたのが「世界は自分で創る」というパワーワードで、それができるとしたらどんなに豊かなんだろう、と思ったのが始まりでした。
でも「自分を生きる」とか「世界は自分で創る」というのはある意味甘い文句で、実際は自分の中のエゴや見たくない部分とひたすら向き合い続ける毎日。
いや、正直に言うと、私の場合は「私にはエゴなんてない」「私は私を正面から見てる」という逃げをやめて「本当の今の私」に向き合うまでに数年かかりました。
その大きな栓が抜けたら、自分のことを正面から見ることができるようになってきて、エゴも見たくない私も一つずつ受け入れられるようになっていきました。
その先に「自分を生きる」「世界をは自分で創る」ということが体感できる日々が始まったように思います。
この過程を経る中で苦しんだのが、「自分を生きるほど孤独になる」という思い込み。
私が私の本質そのものを生きようとすればするほど、大好きな人たちと距離ができていくという恐怖を抱えていた時期がありました。家族とか親友とか、子どもを通して関わる人たちとか。
もちろん「この人がいなければ私の人生は成り立たない」なんていうのは幻想だとは分かっていました。だけど、「この人」たちがいるから私の人生は彩られるというのも事実。
だけど、そのまま進んだんです。今の私の感覚は、私を最善の方向に向かわせてくれると信じて。
その中の一つについて書きます。
それはママ友たちとの関係。
私は交友関係は広い方ではないけど、大切に関係を育んでいきたいと思えるママさんとたくさん出会いました。
自分の心の深いところまでは話さない。会うと愚痴ばかりになったりする。自分の本心を話せないし、愚痴を聞くとネガティブな感覚になったりするから嫌だなと思った時期もありました。
でもね、ママさんたちはパワフルなの。ものすごく生命力にあふれて生きている人が多い。子どもの悩みだったり旦那の愚痴だったり、話していることはネガティブだったりするけど、そのエネルギーとか全部笑いで吹っ飛ばす感覚とか、とてつもなくエネルギッシュ。
だから私はネガティブな話が交わされるとわかっていても会い続けたし、そういう場に行き続けた。楽しいから。深い話はしないけど、お酒飲んで、バーーーーっておしゃべりして、そこで発散されるエネルギーがとても心地よかった!!!
そしてここ最近は、話していてお腹がよじれるほど大笑いするけど、反対にネガティブな話は入ってこなくなりました。子どものクラブチームで子どもたちや親たちがたくさん集まる機会は毎週のようにあって、私自身も係や役割を担っていたりします。そして、そんな大人数が集まる場だから、子ども同士、親同士のトラブル、いざこざ、たっくさん起こっているようです。
でも、私自身の耳には直接にはまったく聞こえてこないのです。耳にすることはあっても当事者じゃない人から薄い噂程度に、とか、直接トラブルについて連絡があっても実際に蓋を開けてみたら我が子は巻き込まれただけで何も関係がなかったりだとか。
これは不思議だな〜と改めて思いました。
一番顕著だなと思うのが、私のすぐ隣で深刻そうに何かについて愚痴や文句を言い合っているママさんたちの真隣にいて、その話が私に波及してこないということ。でもそうじゃない話に切り替わると、すぐ私を輪に入れてくれるの。
そしてもっとすごいと思うのが、私自身の心がそれに全く動じなくなっていること。以前だったら「私は輪に入れてもらえない」とか「大事な話は私にはしてくれない」と感じて小さく傷ついていたりしていたのですが、その点に心が全く動かなくなりました。
自分を生きるとは孤独へ向かう道ではなくて、どこまでも自分の見たいもの、体験したいものだけを生きていける世界。自分を生きるほど人と離れなければいけないと思いがちだけれども、本当に自分自身に必要な人間関係は、自分がどれだけ変化・拡大したとしても残り続けていきます。
そして自分を生きる器が大きくなるほど、残る人間関係への信頼が強くなり、終わりになっていく人間関係への執着が自然と手放れていきます。
「自分の望む世界を創る」、これは本当に細やかなところまで自分の思い通りになるということ。自分自身が「気分がいい」と思うことに、どんな小さなことでも諦めずにコミットし続けるだけのこと。どんな些細な幸せも、どんな無理だと思う大きな夢も、何一つ諦めなくていい。自分を見るほど、自分の好きな世界を自分で創っていける。