「ありのままの私」とか「本質的な私」とかよく言うし、私自身もよく使ったりするけど、まだまだ本当の意味を分かってなかったと思うことがありました。
感覚の話をするのでうまく書けないかもしれません。
「私たちには共通点がある」とか
「類は友を呼ぶ」とか
人と人のつながりには、いろんな理由があると思います。
社会的立場が似ている
趣味・嗜好が合う
現在や過去に同じ経験をしている
共通の知人・友人がいる
でもこれらは全部外側の理由。こうした外側の理由があるから一緒にいられる、つながっていられるというのは、本質的なつながりとは別にあるもの。
私自身にもこういう関係でつながっている友人はたくさんいるし、というかほとんどですし、こうしたつながりをジャッジしているのではありません。
これと違って本質的につながり合っている関係というのがあるとしたら
どんな感覚だと思いますか?
社会的立場も違って、接点や共通の知人もいない、これまでの経験や実績も全く異なる、趣味も嗜好も合わない。
そんな相手と自分の本質が引き合うというのは、全く概念がない世界。
これまでの経験、実績、得意・不得意、生きてきた環境、持ち物、人間性、名前すら全部一旦横に置いて、その状態で残るものは
「ただの私とただのあなた」
私はこれまで外側のものを前提にして、それがあまりにも強固だったから「ありのままの私」だと思っているものにもべったりと概念がくっついていたりしました。
こうやって書いている今でも、わかりやすい文章を書けないと私には人気が出ないとか考えたりする瞬間もあったりします。
できる自分
美しい自分
ふさわしい自分
これも楽しいし幸せだけど、こればかりだと痛い目をみる。なんでもできる私でも、なんにもできない私でも、元は何もなかった「ありのままの私」「ただの私という存在」。
今その「ありのままの私」を本当の意味で思い出して、「ただの私という存在」が受け入れられていると思える感覚で、大事な人と時間を過ごしてほしいし、私もそうでありたいなと思います。