今日は子宮の日(4月9日)です。
一年前の今日、性のお話会をズームでやりました。
性エネルギーを動かしたら、あれよあれよと現実が創造されていったことについて話し、どれだけそのエネルギーが大きいか、そしていかに性には不要な思い込みがかけられているのかを語った2時間でした。
あの日から私の性に対する情熱はますます大きくなっていって、そのエネルギーに運ばれてさらに現実が展開していったなあと思います。
そのときの私にとっては自分の話をお金を払ってもらって聞いてもらうことが大きな挑戦で、でもそのときは受け取る意識でしかいられなかったけど
今は「聞いてもらう」「応援してもらう」ではなくて、今必要な人に、お金やエネルギーを対価として伝えたい、もたらしたいという感覚に変わりました。
それは、2月末のありのままの存在ライブのときに明確になりました。
そして、今日の子宮の日に【縄文】について書いておきたいと思います。
あまりに目に見えないこととか、不可思議な話はあまり書きたくないと思っていて、
なぜなら、性エネルギーは見えない世界を信じられる人だけのものではないし、そのフィルターがかかることで届かない人がいたら嫌だなと思うからなのですが、それも私の狭い世界観が見せてくるものだなと思うので、今日は書きます。
神社に行っても、いわゆるパワースポットに行ってもほとんど何も感じないのがいつもの私なのですが、
縄文の遺跡を見て、縄文時代の土器や土偶を見て
懐かしさのような感覚と同時に、ものすごいあったかいものが身体に広がっていって
泣きながら遺跡を歩き、泣きながら博物館を見て回りました。
何度も生まれ変わってるのであれば、そりゃ15000年も続いた縄文時代のどこかで生まれて暮らしていたかもしれないだろうし、
過去世?とか言われたらそうなのかもしれないけど
そこに生きていた記憶は全く1mmもないけど
そこに生きていたであろう人たちが残した土偶や土器のようなものを通して
その人たちを流れていた無限の愛の感覚とか、「つながり」の感覚が身体に流れてきました。そして、それは性エネルギー・オーガズムの感覚と同じあたたかさ、愛の感覚でした。
その体感が身体に生まれたすぐあとに、「ああ、私は究極的に人とつながりたかったんだ」とわかりました。
元はみんなひとつの意識。
つながるということを超えて、一つになりたい、自分の思いを伝えたい、相手の思いを自分の思いのように感じたい
そのつながりたいという感覚がたぶん普通よりも私は強い。
だから、つながれていないと感じるときに必要以上に不安を感じるし、なんとかつながれないだろうか、とあきらめも悪い。
つながれないならもう会わないと、極端に自暴自棄になったりもする。
こんな感じで、近しい人たちとつながれるならばと、納得できるまでコミットする。
それが、縄文で感じていたあの愛の感覚が忘れられないから、ということならそうだろうなと思うし、そう考えると、タントリックヒーリングを提供していて私自身が癒やされるのも納得です。
今回は、青森市の小牧野遺跡と三内丸山遺跡、そして八戸市の是川遺跡の3つを訪れました。
有名な「合掌土偶」が展示されている是川遺跡なんて、私が育った実家から車で10分かからない、いつもよく通る場所にあった。
育ったすぐのところに縄文の歴史があったことなんて、この歳になるまで知らなかったです。
縄文。
熱が出て行けなかった諏訪大社へも、近いうちに行ってみたいと思います。