今から数年前の私は、とにかく「我慢」が嫌でした。
- 好まない家に住みたくない とか
- 食事を作りたくない とか
- やりたくないことをやるのが嫌だ とか
細かい内容はあまり思い出せないけど(たぶん大した内容じゃないから)、とにかく「我慢したくない」という思いが強かったです。
それは、家族の中、特に夫に対して思っていたことが多くて、「自分勝手だ」とよく言われていました。
それに、夫はなぜそんなに我慢できるんだろう?とも思っていました。「私もいろんなこと我慢しないから、あなたも我慢しなくていいよ」と何度も言った覚えがありますが、
夫は我慢することが苦痛じゃないと言って、私がやりたくないことをたくさん引き受けてくれました。
そして数年経ち、「受け入れる」ということがわかるようになった今、私もいろんなことや状況を受け入れることができるようになりました。
先日友人と「受け入れる」ということについて話しているとき。
「受け入れる」ということと、「我慢する」ということはどう違うのか?という話になりました。
その感覚を久しぶりに思い出して「ああ、昔は本当に我慢したくないって思ってたな」と、不意に思い出したわけです。
今思うと、かつて私が「我慢したくない」と思い続けていたのは、日常的に自分自身が「満たされていなかったから」でした。
いつも自分と人とを比べ、
比べては落ち込み、自分を否定し、
馬力だけはあるから努力をするものの
思ったように評価されないと狂ったように怒りが湧く。
周りの悪いことは全部自分のせいで起こっているような気がして
嫌いな人がとにかく多い。
その前に自分の本音に目を向けることもしてなかったから
「あいつが嫌い」ということにすら蓋をしていた。
本当に身体の中に、いらないものがたくさん詰まっていた、そんな私でした。身体の中がいらないものでぎゅうぎゅうに埋め尽くされているので、それ以上何かを受け入れることが無理だったのです。
そんな当時の私にまず必要だったのは、
- 少しずつ自分を許していくことと
- 少しずつ自分を満たしていくこと
でした。
その一つが「我慢したくない」と言って、やりたくないことをやらないということだったのだろうと思います。
初めは「やりたくない」と言うことも怖かったのです。
「やりたくないことでも頑張っている」ということを自分のステイタス、自分の価値だと思っていたし、やらなければいけないことを放棄すると嫌われると思っていたからです。
次に「やりたい」と言うことにも強烈に怖さを感じました。
勝手なことをしたら嫌われる、自由にしたら家族が大変なことになるという思い込みがあったからです。
何度も何度もトライして、「やりたくない」と言っても「やりたい」と言っても許されることを知っていきました。
それは、身近な周りの人たちから許されるということじゃなくて、自分で自分にかけた呪いから解放されるということでした。
周りの人たちは、初めから私の人生を制限なんてしていなかったし、私が見たいように(制限をかけられていると思い込む)世界を見ていたというだけのことだったのです。
そんな小さな一つ一つを何度も繰り返して、自分にかけていた呪いを一つ一つ解いていったら、心の自由が待っていました。
何を思っても考えても、どこに行っても、何をやってもいい。
そしたら今度は、たくさんのことを受け入れられるようになりました。
やっと、自分の中のコップから水が溢れてくるようになったんだと思います。
自分の正当性を主張したり、やってきたことを評価されたいと思ったりするよりも、自分自身や周りの世界に貢献したい、大切な人たちが笑顔でいることを見ていたい、世界にこの愛の感覚を伝えたい、自分の持ちうる力を使って多くの人たちに癒しをもたらしたいと思うようになりました。
私自身が主張しなくても、評価されなくても、すでに自分が自分を認めていて、高く評価しているから、その思いが小さくなっていったんだろうなと感じます。
本当に生きやすくなりました。
生きやすいどころか、本当に幸せな人間になりました。
自己否定を越えて、「我慢したくない」を越えて、やっと人間になったような感じです。
きっとこんな過程を踏まなくても、初めから自己否定もしないし、承認欲求もないし、人のために喜んで力を使えるという人もいるでしょう。
でも私はこの人生を選んで生まれてきて、この過程を踏まなければいけなかったし、私のような人がいなければ、私と同じような苦しみの中にいる人たちへ光を届けられないのです。
なので、私はこういう意識の話と、子宮へアプローチするセッションでこの愛の感覚をこれからも伝えていきます。
そして、ここにくるまでの多くの人、特に身近にいてくれた人たちとの学びに心から感謝しているし、その人たちの幸せのために、できうることをしていこうと思います。