若い頃の恋愛を思うと、とにかくずっと一緒にいたくて、私の空いている時間は全てあなたのもので、あなたの空いている時間も全て私のものだった。
週の半分は一緒にいて、徐々に一緒に住むようになったりして、一緒にいることが当たり前になったりした。
「一人でいるのが好き」という感覚は皆無だったし、恋愛が私そのものだった。
会えない時間。会わない時間。
恋愛が自分の軸になっていたり、恋愛依存傾向にあったりすると、この時間が苦しみを生む。心が満たされない、さみしい、あなたが何をしているのか確かめたい、連絡したい。
電話をして、ホッとして。
メールのやり取りをして、ホッとして。
そして会う約束をして、ホッとして。
実際に会って、満たされる。
そして数日すればまた、会えない時間に狂い始める。
この繰り返し。
ときおり、正気に戻って気づいたりする。この私の精神状態は普通じゃないと。自分以外のものに依存しすぎている。
でも多くの恋愛の場合、この自分の内面を見ずに、この感覚が情熱だ!と勘違いが起こる。
お互いにとってとにかく一緒にいることが必要だと、急いで一緒に暮らし始めて、いつもそこにいることが当たり前になって、なんとなく結婚することになったりする。
徐々に、恥じらいがなくなって、遠慮がなくなって、それはもう恋愛ではない。
それも悪くないけど。男と女じゃなくなったら、セックスだって当たり前になくなっていく。
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ときおり、正気に戻って気づいたりする。この自分の精神状態は普通じゃないと。自分以外のものに依存しすぎている。
私はもうこの感覚を無視できない。恋愛であっても、それ以外の人間関係であっても。
会えるから幸せ、いつも一緒にいるから幸せ、この「あなたがいるから私は幸せ」の状態は、完全に私が私を見失っている状態なのだ。
恋愛は彩り。描かれている私の人生の壮大な絵画の一部が、恋愛によってより彩り豊かになったりより華やかに描かれたりする。
だから恋愛でも他の人間関係であっても、自分自身が絵を描き続けていることが大前提なんだ。
遊ぶように描く。遊ぶように軽やかに生きる。恋愛も遊び。遊ぶように恋をする。セックスも遊び。セックスしない恋愛も遊び。人生全部遊びがいい。
たまにどっぷり沼にはまって、嫉妬、切なさ、狂おしさ、罪悪感、無価値感を感じたりするのも悪くはない。だけど、そんな悲劇のヒロイン劇場はもうそんなにいらない。
いつまでも制限なく自由に、日常も恋愛も遊び尽くしたい。