「こうして、思考は現実になる」という本を初めて手に取ったとき。
よく覚えていないけれど2014年頃なのかな。
本当にこういう世界があったらいいのになと思ったのを覚えていて、同時に「そんなわけない」と思ったのも覚えてます。それがたぶん「引き寄せの法則」に興味を持った最初で、そこからしばらくは興味を向けることもなく、そのあとしばらくしてからエイブラハムを知っていき、その後引き寄せの法則を実践・発信している人に興味を持っていったのかな。
エイブラハムを最初読んでもわからなかったし、最後まで読めなかった。
時は移り今。
自分の中にいつでも本当の愛がある、幸せがあることを意図できるようになって、エイブラハムの教えの中の「いい気分」でいることの本当の意味が今になってわかるようになりました。
「いい気分」には2種類あって、
- 外側からもたらされるものによって自分の気分が上がる「いい気分」
- 自分の内面につながることによって自分の気分を上げていく「いい気分」
純粋で濁りのない、後者の「いい気分」をいつでも体感し続けていることが、エイブラハムの教えの「いい気分」。
ですが、これがなかなかに難しい。現実には嫌なものも喜びもたくさんあって、どうしてもそれに引っ張られる。
特に喜び。
簡単に自分を「いい気分」にさせてくれるから、一歩間違うと次々にほしくなって、気づくと地に足がついていない状態になっているし、その状態になっていることにすらしばらく気づかなかったりする。
スピリチュアル界隈では、目覚めとか覚醒とか悟りとか、風の時代とかアセンションとか2025年から地球が変わるとか、いろんな情報をいろんな人が発信していて、私自身もその情報に当事者意識じゃないにしても違和感はなかったのですが
「じゃあ悟りを目指すか?」と言われると違う感じがしました。悟っちゃったら、人間らしい感情とか、一喜一憂するスリリングな感覚とか多分なくなっちゃうし、やっぱり人間らしく悲しんだり喜んだりしたいのです。
ちなみにエイブラハムは、覚醒、統合、悟り、風の時代など、「ない」と断言しているそうです。
そのことからエイブラハムの教えと、いわゆるスピリチュアルって違うんだなと思うようになりました。
結局は、悟りとか覚醒とか、スピリチュアルとか、そんなの一切「ない」と断言するエイブラハムとか、いろいろあるけど自分がいいと思うものを選べばいいのですが、なんかどれもしっくりこなかったのです。
なぜかというと、私の中でうまく答えが出ていないことがあるから。
私が何度もつまづいているある問題。
どんどんと自分の現実が大きくなっていくとき、特にその現実が喜びの現実であるときに、あまりにうれしくて喜ばしくて高揚してしまって、その現実を創ったのが自分自身だということを見失ってしまうこと。
つまり、現実に思いっきり走り込んでどっぷり呑み込まれてしまう状態のこと。
この状態になると、嬉しいうちはまだ良くても、徐々に反対側の振り幅が大きくなる。
地に足がついていないから、「地に足をつけなさい」「目を覚ましなさい」というようなことが、ネガティブな現実として起こってくる。
思いっきりジャンプして空高く飛んだと思えば、そのあとに地上に向かって落下して地面に叩きつけられる感じ。
こういう状態にならないためにどうしたらいいかの答えを望んだときに、一つ目の答えがきました。
それは「覚醒するしかない」ということ。はっきりわからないですが、自我で喜ぶ、悲しむという感覚を超えた在り方をすることなのかなと解釈しています。
でもなんかしっくりこないと思いました。やっぱり人間らしいままで生きていたいと思ったからです。
そしたらもう一つ答えがきました。
それは、日常でいい気分でいるときの自分の中の喜びと、飛び上がるほどの現実が引き寄せられてきたときの自分の中の喜びの度合いが、同じであるように自分の中の愛を育てるということ。
「これがいい」と思いました。
エイブラハムの引き寄せの法則は、現実の嫌なこと(コントラスト)を見て、その反対側の望みを願い、あとはいい気分でい続けること。そうするとインスピレーションがやってくるから、それに従って行動し続ける。そうすると望みが現実になる。
永遠に死ぬまでその繰り返し。
私を含めて多くの人がつまづくのは、現実に嫌なことが起きている中で、いい気分でいることが難しいという点。望みが叶うことを待てず、「私の望みは叶わない」と嫌な気分を感じ続けてしまうこと。
ここで思ったんです。
現実にコントラストを見ている状態でも「いい気分」の状態でいられるその在り方自体が、イコール「覚醒」なのではないか?
大きい望みを叶えられるのは、大きい望みが現実になったときの喜びの感覚と、日常の喜びの感覚が同じだから。それだけ日常の喜び、日常で感じる自分の中の愛が大きく拡大している状態ということ。
その状態でいられたら、いくら現実が大きくなっても一喜一憂することがない。なぜなら、叶っても叶わなくても「同じく」幸せで、愛の状態だから。
だから、引き続き私が一番大切にすることは、いかに自分の中にいつも大きく大きく喜びを感じていられるか、これをやり続けていくこと。
現実に何が起こっているかに全く関係なく自分の中に絶対的な幸せがあって、「これが私のこの上ない喜び」だと思えたら、そこに感じる喜びが無限に無限に大きいものであるほど外側の大きい現実にも依存することがなくなるし一喜一憂することがなくなる。
それがつまり覚醒することと同じ。
自分が常に中心点に戻れること、いつも愛のポジションにいられること。そのために今あるものに目を向けたり、瞑想したり、いつも自分に愛が注がれていることを思い出す。それをいつもいつもいつもいつも繰り返し続けていくこと。
これが、コントラストを見て望みを放てる状態。
その上でいい気分でいられる状態。
それができるのがつまり、覚醒している状態。
だから私はますます、叶えたい望みが叶ったときの感覚と、今の自分の感覚が同じであるように、意図し続けていきたいと思いました。
「今、愛の状態でいる」
そう思い続けて、いつもいつもいつも自分の中の愛を思い出し続けることが、唯一の私の仕事。
現実に関係なく、今自分をいい気分にさせてあげられること、自分を愛の状態にさせてあげられること、これが自分に対する無条件の愛。
唯一のその仕事をコツコツ続けることで、望みが叶ったときの喜びの感覚と、「今」同じ感覚でいられる。だからこそ、叶った望みがそのうち目の前に現れる。
だから私にとっての答えはこれです。
現実が大きくなっても、その現実に呑み込まれないためにはどうしたらいいのか?
大きな望みが叶ったときの喜びと、今この瞬間の私の中の喜びの状態が同じであるように、いつも自分を大きな愛の状態にすること。
その状態は、大きい現実がやってきたときの感覚と、乖離ない幸せの状態。この状態でいれば、現実が大きくなっても一喜一憂しない自分、現実に依存・執着しない私でいられる。
つまり、その状態でいられるから、その望みが見えない次元から現実に降りてくるということだ。
思い立って図にしてみました^ ^