クリスマスに限らず、師走・年末・大掃除と12月は、何かと見直し・総ざらいの季節。その一つに断捨離がある。
以前に記事にも書きましたが、10月〜12月の3ヶ月間は翌年1年間の縮図になっていると言われているのですが、私にとっても毎年そう感じるので確信を持っているのです。
だからこそ、今年のうちに自分にとっていらないもの、もう不要になったもの、エネルギーを濁らせるもの、そうしたものは手放しておきたいと思っていました。
その中でも、私にとってラスボス級に大きなことについて、クリスマスに断捨離しました。意図していたわけではないのですが、「もう終わりにしよう」と感覚がきたので、それに従いました。
今年はその大きなことに大いに振り回され、エネルギーを奪われ、
いいえ。
大いに振り回してもらい、大いにエネルギーを奪ってもらい、本当に人間らしい感情を味わい尽くした一年でした。
そのことが私の人生に起こったとき、「Death」のタロットを引きました。それは今年の春のこと。
私の中に手放すべきものがある。
それを教えてくれるために、そのことが起きている。
Deathがあまりに強烈だったので、春から今日まで、日々このDeathの意味を考えてきました。そのこと自体を手放すべきなのか、そのことが代わりになった以前の古いものを手放すべきなのか。
でも、実際にそのことを手放してみてわかったことがあります。
自分を見失うほど振り回されるもの、エネルギーを奪われるもの、私はこれを最後に味わいたかったのではないかと。
人間として、やり尽くしたかったのではないかと。
それくらい、悲しみ、切なさ、嫉妬、執着、無価値感、そんな人間らしい感情、感覚の全てを味わい尽くした経験でした。
全部私の自我で感じていること。
自我で悲しみ、切なさ、嫉妬、執着、無価値感を感じる一方、同じく自我で刺激的な快楽、刹那的な喜びも、幾度となく感じた。
その都度その都度満たされて、そしてすぐに渇いていく強烈な感覚。
でも時折子宮に意識を向けるとその自我の感覚は薄らいで、大したことではないと思える感覚の場所にも何度も立てたりしていたのですが。
だけど、やり尽くして終えたかったんだ。
確かに、味わい深い、人間ならではの感情の遊び。
この経験が10月〜12月に起こったということは、きっと来年は自我と真我を行き来する一年になるのかな。それを経て、もう本当に人間ならではの、個を生きる感覚は、終わりになっていくのだろうと思います。
本当に、時代が変わっていくね。