続きですので、一つ前からお読みください。
「甘えられる私」を目指して、「甘えることは奪うこと」という自分の偏った思い込みを昇華していく過程の記録です。
IFS(内的家族システム)とは言っても、講座で教わった手順を思い出しながらセルフでやっているので実際には深いところまでは入れていないかもしれません。
ですが、何回もセルフコーチングしていて思うのは、今回であれば私を守っている「みゆきさん」、このパーツに会えれば大部分は癒されているんじゃないかと感覚的に感じています。
「みゆきさん」とのお話がうまくいって、その奥にいる存在に会いにいきます。小さな女の子で白のブラウスに赤いスカートを履いて、体育座りをして顔をうずめて暗い中に座っています。名前は「はなちゃん」という感じがしました。
もうその存在に会う前から、強烈にイメージが私に覆いかぶさってきます。
「おばあちゃんの家」
そして「みゆきさん」との話の中で、その存在は3歳だと分かる。
私は、年少さんから保育園に預けられたのですが、1歳から保育園に入園するまでは父方の祖母に預けられていました。
祖母は、愛情表現をしない人でした。
分かりやすく可愛がってくれるとか、甘やかしてくれるとか、そうした記憶はありません。
母方の祖母が、私たちが帰るときに見えなくなるまで手を振ってくれるのに対して、父方の祖母は、私たちが玄関を出るとすぐにドアを閉めて鍵をかける感じ。母方の愛情表現が分かりやすかったがために、その違いを感じたのもあるかもしれないですね。
でも、表現をしないだけで、愛があることは今では分かっています。私が成長し、祖母が歳を取っていく中で、祖母に子どものようなとても可愛いらしい一面があることが分かるようになりました。
軽く認知症を患ってからは、当時3〜4歳だった私の息子を本当に可愛がり、聞いたことがないような笑い声をあげていたのも印象的です。「おばあちゃんって子どもが大好きだったんだね」と家族と話したほど。
私が預けられていた当時は、祖母に愛があることが分からなかったかもしれないです。一方で、決して預けられていたことにネガティブな思い出の感覚があるわけではありません。
だけど、どうしてもそこで心を閉ざした感覚があるのです。
感覚的に、おばあちゃんを困らせてはいけないと「はなちゃん」が悟っているように感じました。
そこで「はなちゃん」とお話しました。はなちゃんは多くは語ってくれないのですが、感覚的に思いが伝わってきます。
思いにたくさん共感し、そして、先に書いたような本質的な祖母について話しました。「愛にあふれていたんだよ」と。
最後は、「はなちゃん」は笑顔になってくれたように思います。「可愛い可愛い可愛い可愛い」って何度も可愛がりました。
実際の私はと言うと、とにかく大泣きしました。はなちゃんの心の感覚に触れるたびに、記憶が開かれていくたびにたくさん涙が出てきて癒されたような感じがします。
少しですが、自分自身の心が開いた感覚もあります。さあ、これがどう現実に反映されるのか?まだ実感できる変化はないのですが、自分自身を見守ってあげようと思っています。